「俺たちには厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない。

みんな見てろ。これが…死だ」(from『台風クラブ』85 相米慎二


知人の身内で数日前に亡くなった人がいた、という話を今日聞いた。口もきいたことがなく、何度か見かけただけの人ではあった。
どんな人でも、知人や思い入れのある著名人の死には内省的になってしまうのだが、まだ若い子だということも重なってちと深く内側に入る。
2日前のこのブログが偶然でなく思えてくる。
集合的無意識のようなものが俺に書かせたか?


死ぬ時、人は語りたいことを語り終えた満足を持つことができているものなのか? はたまた語り得ぬことを死ぬことで伝え終えるのか?
語りたいことを語らないまま、あるいは誰にも聞かれないまま死ぬこと ー 例えていえば、地下の下水管の中で一生を終えること。光を浴びず、本当の姿を誰にも知られずに ー 、その可能性には真の恐怖を感じる。
その恐怖が僕を(そしておそらくは少なからぬ人々を)否も応もなく生き延びる選択へと向かわせている。


一時期、「死者の、語られず終わった言葉」にこだわって創作をしていたなあ。。。