愚を嗤うより、賢を求め人と分け合うかし

西部邁
「僕が言いたいのは、文学者はほとんどみんなバカだということ。特殊な例外を除いて、大江健三郎だろうが、石原慎太郎だろうが、まったく文学的感受性に欠けている。」


小林よしのり
「田原さん(田原総一朗)はこの本(「日本の力」田原総一朗石原慎太郎)では全共闘世代に、もの凄く肩入れしているでしょ。あれは何だろうね。」


西部
「この人には幼いセンチメンタルなロマンチシズムがあって、全共闘にあるロマンチシズムを感じているんですね。秋田明大(原注:60年代後半の日大全共闘議長)自身は「何の思いもなかった。ちょっくらやってみて、ガーッとあがいてね、日大全共闘の議長になったからやった」と言っている。でも、終わってみたら、自分は広島に帰って自動車の修繕しかできない、と言ってるんですね。僕はそれ、正しいと思う。それを、インテリたちが、「何か深い思いがあったんでしょう、ぜひお聞かせください」と言っている。いつまでたってもオトナにならない人たちがいるわけです。」


小林
「それがもの凄く理解できない心情なんだ。」


西部
田原総一朗彦根の田舎から東京に出てきて、岩波映画とかに勤めて、ドキュメンタリーをやっていたんです。その時は、安保世代だったんですけど、そこで全共闘世代というのも自分と同じように地方から出てきて、何かやっているのを見て、「自分と似てる」と心情的に感じたところがあったんでしょう。でも、僕が言いたいのは、文学主義と映画主義というイデオロギーがある、ということなんですね。小林秀雄を使わせてもらえば、「人間は生きのびるためには一度死なねばならぬ」と言っている。でも、この人たちは、死んでない。田原さんも石原さんも。「なんか、自分は生き延びててよかったなあ」と言ってるわけです。」


小林
「たしかに、そう言っている。」


西部
「つまり生き延びることで、文学主義とか映画主義というような蜘蛛の巣に引っかかるわけです。本当は、自分はもう蜘蛛にやられているんです。もう、すでに死んだ蝶とか蛾とかトンボのような状態なのに、自分はまだ生きていると錯覚している。文学主義とか映画主義という蜘蛛の糸があって、それにひっかかっていれば、自分はまだ生きていると思ってるんですね、彼らは。でも、もう、それは死んでいるということなんです。
ここで僕が言う文学主義というのは、何となくセンチメンタリズムに少々訴えられるような、少々人に感じさせるレトリックを使って、できは悪いけれど若干の論理もあるというような、そういう半端な世界があって、そこに引っかかると、なんか落ちつく感じがするんですね。それが、ここで僕が言う文学主義なんです。僕が小林秀雄のことで言いたかったのは、文学主義という蜘蛛の糸を突き破らなければ、本当の文学とか、魂に近づけないということです。」
(「本日の雑談 6」小林よしのり西部邁 より)



逆の立場からちょっとだけ弁護しておくと、田原総一朗が60年代後半〜70年代前半に作っていたテレビドキュメンタリーは、今見ても過激な傑作ぞろい。(未見の作品ばかりなので、もっと見たいし、また見たい。DVDレンタルで出せば今の田原総一朗のイメージとのギャップも相まって、ヒットが見込めるのだが、どうでしょう、テレ東さん?)
で、俺は「映画主義者」なのだろうか、と…。


西部さんは別の箇所で、「新しい」と世に出て来るほぼ全てのものが新しくなく価値もない、とも。ごもっとも。30過ぎた人間なら気付いておくべきことだよな。
さらに気付いたのは、若者が新しい感性で新しいものを発見するというのは大嘘で、若者は無知なのでいろいろな物事に新鮮さを感じ興味を持ち、そのうち伝統や本流から外れたものが大人(というか、主にマスコミ)に選り分けられて「新しい」と喧伝されているだけなのだな。