「ひからびた家庭にも返り花の時があらう」

室生犀星の死は確か70年代。ネットで詩を探したがアップロードされていないので思い出した。以外と最近の人なのだ、と思うのは30代の感覚か。
中学2年の時の国語の教科書に載っていた。筆者の顔写真が近所の硬筆の町教室の先生に似ていて、同じくその教室に通っていた仲の良かった同級生と大爆笑していたことだけを憶えている。タイトルも内容も全く憶えていないところからすると詩に感興は湧かなかったのだろう。
今日図書館に寄ったついでに、詩集をぱらぱらやった。
著作権に配慮して全文引用は控える。このブログでは度々引用をしているので
そちらもヤバいのかもしれないが、まあそれは置いておいて…) 


「 『昨夜』室生犀星
 

 昨夜 眠らないでいると 


 遠くの方で起りかけた風の音を聴き


 <後略>         」


父親は遠くで起る風が家の上を通り過ぎるのを聞いて眼を見開き、何も気付かずにすやすや眠る妻と子を見て、眼を閉じる。全文、感情表現がない、ハードボイルドな詩である。
尾崎豊の『太陽の破片』の「ゆうべ 眠れずに 失望と戦った」という歌い出しを思い出す。不安定な「自我」と「恋愛関係」に揺れる尾崎の歌詞と並べると、「家族関係」だけが書かれた『昨夜』もまた際立つ。



「 『家庭』室生犀星


<前略> 


 家庭を脱けるな


 ひからびた家庭にも返り花の時があらう


 どうぞこれだけはまもれ


<後略>              」


ラジカルに、ただひたすらに、人に家庭の中にとどまり続けることを求めている。


上の二篇みたいな詩こそ教科書に載せて中学生や高校生に読ませておきたい。綺麗ごとで済まない家族の綾がある。「癒し」でも「慰め」でもない、言葉それ自体が「支え」となり何度も反芻されるだろう。
もし子供の頃こういう詩を読んでいたとしても、僕はどうしようもなく家庭を壊す方向に加担しただろう。どうしたって壊れざるをえないものはある。しかし言葉によって救いうる範囲のものも、確実に存在する。
人はパンのみにて生くるにあらず。