見つけた

承前。ずっと出典を知りたかった。西部さんは大分言葉を換えている。それが本質をずらしているのかどうなのか…僕の解釈は「龍」=自我としておく。「言葉を使うこと」=「言葉に自分の重心を置くこと」は、幼い自我を殺すことなのだ。しかし(逆説的なことに)、言葉の運用も含めて、人が物事を始めるのは幼い自我からでしかありえない。
http://d.hatena.ne.jp/F-I/edit?date=20070416
http://d.hatena.ne.jp/F-I/20070416

文学に志す人は、誰でも頭の中に龍を一匹ずつ持って始めるものですが、文学者としての覚悟が定まるとは、この龍を完全に殺して了ったという自覚に他なるまいと考えます。僕の貧弱な経験から考えても、この仕事は口で言う程たやすいものではなく、どうすれば殺せるかという解り易い方法があるわけでもない。これは単に思索の上の工夫ではなく、意志や感情や感覚による工夫でもあるからです.殺そうと思って却って相手を肥らせるという様な事にもなりましょうし、忘れているうちに相手が死んでいるという様なうまい事にならぬとも限らぬし、まあ要するに相手は魔性であると思えば間違いない。     」


小林秀雄「文学と自分」より


◯「考えるヒント 3」小林秀雄
◯「アメリカの大罪」西部邁
ともに100円。
◯「日本人のスポーツ戦略 各種競技におけるデカ/チビ問題」兵頭二十八
古本。