アメリカ映画

『セブン』
イマイチ以下。それが私淑する脚本の師匠のこの作品に対する否定的意見をすでに読んだせいに思えたりもするので始末が悪い。
しかし、脚本のアンドリュー・ケビン・ウォーカーの作品歴を見渡してみると、『ゲーム』も『8mm』にも共通するつまらなさを見出せる。上手いけれども実感が入っていない。
どう見ても可能性を秘めた女優であるグウィネス・パルトロウの演じる刑事の妻は、いくつシーンを重ねても存在感を獲得せず、生首となって箱詰めにされても痛みは生じない。(さらにいえば、生首をオフのまま処理したのも誤っている。比較するのはヘンだが、『オールド・ボーイ』の見せ過ぎもしない端正な処理の仕方は好ましかった。)
ケヴィン・スペイシーの虚無的な演技がもっとも印象に残るのだが、ここで演じられている狂気も作家の都合でしかない、と師匠は断ずる。ここまで言われると、また難しい。
どこまでいけば物語は御都合主義を超えたことになるのか。
基準など無いだろうし、実感としてもよく分からない。


『映画の魔』拾い読みし始めたら止まらず。


アメリカ映画についてあれこれ考えているうちに、結局同時代で面白いのはイーストウッドファレリー兄弟だけである、というシンプルな結論に達した。


思い付き。
広義のコミュニケーションのほぼ全ての基底には、互いをコントロールしようとするパワー・ゲームが潜んでいるのではないか。別にネガティブな意味ではない「汎パワーゲーム論」みたいなものを構想している。
(すいません、備忘録兼ねているんで、こういうことをたまにふらっと書き残します。)