わが内なる暗黒(あるいは、俺はアルジャーノンの後半か?)

不思議な経験をした。
この映画自体がかなり奇妙な印象をもたらす、映画草創期の終わりに現れた異端の映画なのだが、そのことではなく、僕はこの映画を見たことがあるのを全く忘れていたのだ。冒頭の5、6個のショットを観た所で、数年前に観ていたことに気付くのだが、映画がその後がどういう展開になるのかが全く思い出せない。その後いくつもの印象的なショット(とくに最近の俗化した映画界ではまずお目にかかれないようなピュアなイメージの美少女!)が無意識の層に仕舞われていたかつての鑑賞の際の記憶を呼び覚ます。しかし、相変わらず物語の展開だけはちっとも思い出さない。
映画の最後に至ってようやく分かった。それまでの物語とプロット的な連続性が乏しい、ひどく意味の薄いシークエンスで映画が終わっているのだ。出来事上の展開は分かるのだが、観客の意識が解析できる意味のまとまりを結ばない。これが最後に来たら、確かにそれ以前の記憶までがあいまいにぼやけてしまうだろう、と納得できた。
催眠術の、被験者が催眠を受けたこと自体を忘れるという手法を思い出す。まさか第2次大戦旧ソ連の催眠研究の成果が取り入れられている?先の美少女を含む旧ソの体育学校の美男美女達は無菌的な白い建物の中で共産主義社会での理想の倫理について明るく楽しく議論を交わしている。


睡眠4時間弱で、居眠り覚悟で行ったがこの奇妙な体験のせいで次の映画まで少しの眠気も無く完走した。

老年に入った田中絹代が無数の仏像が並ぶ部屋に部屋に入り込む所から回想形式で物語が始まり、その仏像の間で映画が終わると思い込んでいたのだが、記憶の嘘でした。(笑)。回想で始まった時系列の流れが冒頭の場面まで辿り着いた後、さらにもう一つ悲惨なエピソードがあった。


中学の頃、甲斐よしひろ薬師丸ひろ子の映画をテレビ放映でまとめて観たという経験をNHK−FMの「サウンドストリート」で語り、「あの人は現代の田中絹代だ」と絶讃していて、20年以上その発言の意味が分からなかったのだが、今日『西鶴一代女』で冷徹な距離を置いたカメラの視線を引き受け、全身の演技を続ける田中絹代を見ていて理解出来た。
セーラー服と機関銃』と『西鶴一代女』が似ているのだ。ヤクザの組長になる女子高生と姦通罪で都払いになる貴族の娘、どちらも現実の汚濁に巻き込まれて地獄のような世界を這いずり回る女(の子)。そしてカメラが主演の女優をひたすら凝視し、その徹底したスタイルによって、女優個人の存在を捉えたドキュメンタリーとしての感動を呼び起こす。