自分は実際に19〜20歳になるまで、その年齢から先の人生のイメージがまるでなかった、という事を今日あるきっかけで思い出した。
比喩的にいえば、その年齢から先は平らな地球の縁から滝が落ちて行くように、どこかへ消失していた。
もちろん、やりたいことはあったのだが、それは同じ比喩を使えば、「宇宙のどこか」にありその「どこか」がどこだかは分からなかった。(備忘)


◯「神様の不在」トリコ劇場@高円寺明石スタジオ
 隠棲するアル中の神父は、これから戦争に行かされるのに神に何を祈ればよいのだ生き続けるための人殺しか、と苦悩する青年に、婚約者と戦争を越えて再び再会させてくれと祈れという。
 伝染病で死にいく少年は、自分の母親が祭司である、その伝染病を克服する力があるといわれている宗教の洗礼を選択せず、教会で見習いとして働く純真な少女に、「神」という代わりに少女の名前を使って祝詞を唱えて洗礼を与えるよう求める。
 全ての宗教は最終的な信仰の力を目の前の人間との繋がりの中に見出すという、ある達観を示していると思える。その具体的な場面の提出には力がある。
 しかし信仰の揺らぐ人々を描くには、ここで題材とされている現実の苦痛や汚猥は、いくつかは題材そのものとして、いくつかは表現として弱過ぎた。もっと大きな振り幅の中にこの到達があれば、さらに力があっただろう。