らっきょの皮剥き

生きる事は「過ち」という皮を剥いでいく過程であろうか。
カルマからの解脱、という仏教の(あるいは、その土台となったヒンズー教の)人間観・運命観に、ふと頭が戻った。
らっきょの皮剥きとは、剥き続けても「芯」はなく、食べる所が無くなることを含意する。剥ききった先にあるのは「無」あるいは「空」。
しかし、これも虚無的な世界観だよな。「善」への希求が無く、「悪」の排除があるのみ。このあたり仏教ではどうなっていただろうか?