再び、論理や論争について

期末試験が続いていた生徒、ひとまず終了。
試験が5日がかりで、最後の2日は英数一科目ずつというのがのんびりしている。いや、逆に気合いが入っているということか?


生徒が問題を解いている間、夏の授業の準備で論理学の問題集を読む。まだ知らない事いろいろあるな。
囚人のジレンマ」の意味がようやく理解できた。要は理論上合理的なはずの結論がかなりの確率で最適な結果を招かないことの例証ではないか?日常で起れば人はそれを「不運」と呼んで諦めているのだ。
今日読んだ本は学問的(あるいは抽象的)で日常の場面で問題になるテーマはあまりない。ディベート事例集で、本当に日常的で面白いテーマを扱い、かつ面白い意見の事例がついているものを探している。アメリカにはすでにあるだろうな。日本では、ディベート本も論理本も主にビジネス書の分野で流行中のようだが、本当に売れる書き手は現れていない。面白い人の本はどれも、ハイレベルの大学生以上でないと読解できない。未開拓な分野で未開拓な市場。この面で啓蒙されたい日本人が多いのは間違いないと推測する。
アメリカのディベート大会での優勝経験があり、その後日本のディベート対抗戦で審査員を務めた日本人の学者さんが言っていたが、日本のディベーターは論を争っているうちに感情的になって人格攻撃にずれていくことが、やはり多いらしい。もっとも、たとえばかつての大東亜戦争や最近のイラク戦争にまつわる米政府の大義の説明やその一般への浸透を考えると、欧米人が合理的思考力が高くひたすら論理的というわけでもなく、差は相対的なもののようだが。
論争者が感情的になった時に、ディベート大会審査員のような権威のある第三者がその場にいて注意を促すことは、日常では多くはない。感情的非難の的になった被害者は、ことの当然として人格攻撃に憤るし、また憤らねばディベートの原則を知らない周囲の日本人に論争に負けたかのような印象を与えてしまう。上手く感情をコントロールして冷静に反論したとしても、人格攻撃に一旦踏み込んだ論者は、攻撃力に酔ったり、冷静な対応が想定と違うので予測した反応を引き出そうとしてさらに人格攻撃を増す方向に向かって、適正な論争の土俵へと引き返すことができなくなりがちだろう。
人と人が意見を戦わせるということは今だに無法地帯、弱肉強食の原則が支配している。


  • 『AA 音楽批評家:間章 第4章・ぼくはランチにでかける』05 青山真治