現代の宿痾「批判馬鹿」、その簡単な見抜き方・対処法

一番解り易いと思われるものを具体例にとります。


手順1
政治(政策・政治家・国家)を批判する「だけ」の人間は「じゃあどういう政治(政策・政治家・国家)が良いの?」と問うと息を呑みます。
あたかも「世界にそんな問いが存在したのか!?」(笑)とでもいうように。
批判自体がいくら論理的で客観的に納得可能なものであっても、その人の一定の論理的能力を示すだけで、この質問に答えられないならば、やはり批判馬鹿です。その人の実力は多寡が知れています。

手順2
で、彼らも多少の知恵はあるから一つか二つ自分が批判した対象への対案らしきものを持ち出してくるのですが、それに対して真正面からの反論 ー 本当にふつうの知識の範囲で思いつくもので構わないのですが ー を一つ二つ持ち出すだけで、相手はまた口を噤むか正しさの一方的な決め付けに逃げ込みます(日常我々が接する批判馬鹿はこのレベルが多い)。
馬鹿がこじれていると曖昧な発話や難解な用語でその場を煙に巻きます(マスコミに登場する批判馬鹿になるとこのレベルが増えます)。


手順3
その後の対応は相手と自分との立場次第です。


a.相手の社会的立場が自分より弱い場合
ー 論理をさらに尽くし、罵倒して泣かす…もとい、優しく諭して(笑)、世界への態度を正してあげましょう。


b.相手の社会的立場が自分と同じ場合
ー 微妙です。立場よりも距離の問題になります。
近しい程やり易いのですが、批判的になりすぎず、もちろん喧嘩腰にもならずに説得を試みましょう。遠い場合は下記cと同じで。


c.相手の社会的立場が自分より強い場合 
ー 嗤<わら>うのは腹の中だけに留め、以後その人とは関わらぬか関わらざるをえない場合でも心は閉ざしておきましょう。とくに2の最後に書いた「馬鹿がこじれている」場合は出来る限り距離をとらねば、笑っていられない被害を被る可能性が高いです。


といいますか、「こじれている」場合には力関係がどうであれもう「論」は役に立ちません。
「逃げましょう」
 ー というとまるでいけない行為のようなニュアンスになりますので言葉を変えます ー 
「避難しましょう」
やがてはその人の前に現実が立ち塞がり、傷付き、自分があまりに抽象的な言葉の世界に遊んでいただけと気付かざるを得ないものですが、その現実が出来るだけ早く訪れること、そしてその現実が「批判馬鹿」にとって必要以上に過酷なものとならないことを祈ってあげましょう。
嗚呼!



手順1’として「じゃあどういう○○がベストなの?」という質問もあります。
こういう会話、映画の話をしている状況でも経験していますし、某エッセイで文学について似たような体験談が書かれていたのを読んだ事もあります。
誰でも批判馬鹿に不愉快にさせられた経験が一度はあると思いますので、この方法論の汎用性は高いです。



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傑作。エンディングは納得出来るとはいえ、作品のトーンに合わない甘ったるい収まり方。伊藤大輔を良く知っていれば、眼病の治った男の眼を再び潰してでも添い遂げようとする女の激情と悲劇が、本来のラストだと想像するのはむしろ自然なことだろう。

ガントレット』の元ネタ。(笑)見た人には解る。