野菜は物を言うのだろうか?

○「野菜にも一言いわせて!さよなら原発デモ!!」
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野菜が福島の放射線被害に文句を言っている、といいたいらしいが、何を根拠に野菜が放射線を浴びて出荷されないのを悲しんでいると判断したのか?出荷されれば人間に食われるわけだが、野菜は食われるより自然に萎れる方を好むという推測だって成り立つ。そもそも野菜に感情があるのだろうか?
写真で出ている家畜や魚にも放射線被害を理解し悲しむ知性があるのか?いくらか知性があったとしても、考えるのは「良かった〜、原発事故のおかげで食われなくなって長く生きられる!」だろう。
このHPの文で野菜や動植物が引き合いに出されている部分は人間中心主義視点、というか反原発中心主義視点によるご都合の良い決め付けがでしかない。


このような偽装に出逢うと、ひたすら人間にとって住み易い環境の維持だけを追求しているのに「地球を守れ」「地球を救え」などと言っていたここ10年の地球環境保護運動を思い出す。
地球の大気はその歴史の前半には現在と比較にならない高濃度の二酸化炭素を含んでおり、酸素は最近になるにつれて増えてきた。ここ数億年でも二酸化炭素の大気中比率が酸素を上まわっていた時期があり、地球に取って数パーセントの大気の変動は経験済みで屁でもないだろう。*1
動植物にとっては現在の冷帯・寒帯の温度が上がれば居住範囲はむしろ広がるので、温暖化は望ましい。


たかが人間のためでないのだ、「地球のため」「野菜や家畜や魚のため」つまりは「他者のため」なのだと彼らは言う。その「他者」達が彼らと同意するかどうかは甚だアヤシく、無根拠なのにそう思い込めるのはなぜだろうか。他者を持ち出せばエゴイズムを離れた客観的で高級な主張に聞こえ、味方が増えて正当性が増した気がする、というのがその裏にある心性ではないか。さもしい根性だ。
自らの主張に自信があるのならば、直接に表現すればよい。(実際彼らは自信があるはずなのに。)放射線による一次産品への被害に抗議するならば、「国と東電は生産者(「人間」)にきちんと補償せよ」で良いではないか。
ふつうは存在を合意出来ない他者の意志の威光など借りる必要はないだろう。反原発主義者に強引に味方させられた野菜と動物が「可哀想」。*2

*1:「屁でもない」と判断する思考力があればそう感じるということで、地球の思考力は(善悪の価値基準の存在も)証明されていない。

*2:念のため書いておくが、もちろん本気で可哀想とは思っていない。彼らをバクバク食ってる私の日々の食事の方がはるかに罪深いのだから。