尾崎豊

午前中、仕事の顔合わせ。上手くいって新規契約。


メガネの似合うインテリ女に弱いこと、そして人にものを教えるのは本当に好きだということに気付く。


後者は、病的なものと理解している。
とある治療者に指摘されたことがあるが、僕は人と水平的な(平等な)関係を結ぶのが苦手なのだ。
対人関係が競合的な方に流れてしまう。
相手が下にいてくれる(例えば、教わる立場に居る)と良いが、優位を取ろうとすると、良い場合で関係を断つこととなり、悪くすると主導権争いで闘争へと発展する。
言い換えると僕は、教わり下手、使われ下手。

  • 『大酔侠』(64 キン・フ−)

キン・フ−初見。これまた遅くなりました。
結構期待していたのだが…、いや、つまらなくはない。監督としての判断は代表作に保留。
若きサモハン・キンポー(こっちもロクに作品を見ていない)出演。
撮影、西村正。この人の撮影本は読みたい。


無人島に持って行く映画、前に人に聞かれて『東京物語』と答えたが『燃えよドラゴン』を選ぶかもしれん。
馳星周不夜城』シリーズの最新刊が出る(出ている?)ことに気付く。『愚か者死すべし』ようやく読み始めたところなのに。


企画会議。集団で作業するとは集団で一つの人格になることだ、というのがようやく腑に落ちつつある。


横浜の山手で、道に迷う。
TFTでウツと恐怖を無くす。今の所効果はある。


11/4の日記の里美さんにコメント返すために、齋藤環の尾崎豊論を読み直す。僕が「アンヘドニア」という用語を知った文章で、ここでは彼の歌詞に見られるアンヘドニア的性向について的確な分析がされている。
読んでいるとむずむずしてきてCDラックの「専用コーナー」から一枚タイトル見ずに取り出すと『放熱の証』だった。
詞が(尾崎のそれまでの曲の多くで実現されているように)声の力で言葉として立ち上がることがなく、一方で「詩」「断章」としてのみポツンと印象に残ったりする、失敗作といえば失敗作。
ともあれ1曲目の『汚れた絆』だけは「尾崎」のレベルに達していて、何度もリピートしてしまう。
尾崎豊も僕の数少なき快楽の源。