実感無き描写たち

知人の出ている、とある演劇を観る。
宇宙モンスターSFを舞台でやろうという遊び心はあっても良い。メディアの特性を考えれば、演劇作品として広く、あるいは長く評価されるようなものはまず成立しないと推測出来るとはいえ、チャレンジも多様性もあった方が良いに決まっている。
そしてこの作品は、舞台空間で宇宙船やらミサイルやらを、体技によって(役者の言葉による説明とSEにサポートされつつ)演劇的面白さとして見せることに成功している。
その意味では良い舞台だった。


で、批判ではないのだが…いや批判かもしれない。ただこの作品ひとつの話ではない。
この作品を見終えて、日本の映画・演劇・テレビ・マンガに共通する、ある「症状」のようなものに気付いたのだった。この「症状」は「欠陥」でもあるのだが、おそらく作り手はこの「症状」を「慣例」のようなものとして行なっており、「欠陥」と言われてもそんなことは苦笑で受け流すだろう。
何のことかといえば、物語で語られる情感を作り手が全く信じていない、あるいは実感していない情感を平気で創作に込めていること。
具体例として分かり易いのは、深夜枠や視聴対象が中高生のドラマ。この2種類に関してはほぼ全ての作品と言ってよい。それでは、プライムタイムの大人向けドラマはどうかといえば、ここにも前の段落に書いたような「嘘」は多いのだが、実感が伴っている確率はぐっとあがる。
今日の芝居でも、いくつかの場面は、昨今の日本人なら何十回と経験してきた設定とセリフが使われていた - 「仲間を救うための敵への突入」「親の悲劇的な死、その悲劇を救える仕事に就く事を夢見る遺児。その子の事情と気持ちを代弁して説明する近隣の善人」「戦場の同僚同士の、最終決戦前のほのかな愛の交換」「善をうそぶく、利己的な正義を振りかざすだけのファシスト的金持ち社長」等々 - 。作り手は陳腐を承知でこういうクリシェ(紋切り型)を使っているので、陳腐と受け取られることは折り込み済みであり、僕が言いたいのもその事ではない。これらの場面の描写に実感が存在しないと言いたいのだ。上に挙げたエピソードのどれも物語 - いやプロットというべきか - を成立させるための方便としか思われない。作り手は「そういうもの」として物語表現を提出し、視聴者も観客も「そういうもの」として実感無き物語を受け取っている。(この辺は感性的判断だが…伝わるだろうか?)
テレビであればそれが数百万人単位で行なわれている。物語の流通の仕方としては異常ではあるまいか?
海外のテレビドラマや映画に関してはこの「嘘」への開き直りを感じない。これも感性での判断なので客観的証明はできないのだが、下手であっても奇矯であっても、語られている世界への信念は存在していると思える。その「実感の内在率」の高さは日本製作品の比ではない。
日本で流通している外国作品が輸出に耐えうる各国の優秀な作品だからではないか、と突っ込まれるかもしれない。確かに、そのせいで「実感の内在率」が幾分上方にずれている可能性は否定しきれないが、我が人生の結構な量の(くだらないものを含めた)B級作品経験に照らすと、やはり日本の作品、とくにこ20〜30年のものは「実感の内在率」は低いと思える。


…備忘のため勢いでフライング気味に書いたので歯切れが悪く、用語も構成も生硬になっております。
ご容赦ください。
(いずれ取り下げるか改訂するかも。)
結論としては、「面白くないに決まっている、そういう描写は」。