当然だけれど、効率はすばらしい

効率はただ便利なわけではない。効率によって多くの人命が救われ維持されている。人類は1970年代に総カロリー生産量が総カロリー需要量を超えて総体的には飢餓を克服したが、それは生産「効率」を高めたからだ。
効率を口にすると「時間をかければ良いではないか」と反論する人がいるが、労働の効率性=生産性を上げれば生活の満足度は上がってより良い「生」になるし、情報の効率を上げれば、たとえば医療分野での進歩が加速して人命が救われることになる。効率は広い意味での「生」の質を上げ人命も救っており、効率を捨てることが出来るのは他の部分が十分効率的で余裕がある場合だけだ。
意図的に殺傷目的で核エネルギーを使った原爆投下と天災を契機として事故を起こしたエネルギー利用目的の福島原発を、被害があったというだけで同列とみなして否定するのは飛躍していないか?包丁やナイフといった刃物で人が殺傷されることも誤って怪我をすることも多いが、だから我々は「世界中が」「あざ笑ったとしても」刃物の使用をやめ刃物に変わる切断手段を「国家レベルで追求すべき」なのだろうか?*1
もう20年この人の新作を読んでおらず、それは自分との感性がズレてきたのだと思っていた。80年代までの諸作は今も好きで、その頃には現実に対する適切な距離感と批評意識があった気がするのだが…年を取るにつれて文明理解が杜撰に変化するということもないだろうから、もともと現実を離れたポエムの人だったのだろう。あるいは、世界的権威になってスペイン美女にキス攻めにあうということが美味し過ぎてボケたのだろうか。
「非現実的な夢想家」が逆説になっておらず、そのまんま批判として当てはまる。


村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040019000c.html

*1:新しい方法を追求しなくとも、調理の際の切断くらいならば包丁を使わず手でやることも可能だろう。「道具使用以前の猿人」などと世界中からあざ笑われつつ、料理の味と見た目の美しさ、そして時間「効率」を無視すれば。